Re: 自由意志について


[ フォローアップ ] [ フォローアップを投稿 ] [ 日本GAP横浜支部 BBS ] [ FAQ ]

投稿者 Junichi 日時 1998 年 7 月 15 日 20:47:25:

回答先: 自由意志について 投稿者 希望 日時 1998 年 7 月 12 日 13:09:11:

> 自由意志こそは、人間に与えられた
> 宇宙の意識の栄光のなかでも
> もっとも素晴らしいもののひとつです。

> 私は父の家に帰りたい。

> でも、父の家はどこにあるのでしょう。

> 今、この時、この場所が、
> 既に父の家である

> と、土星のマスターなら
> おっしゃって下さるのでしょう。

> 既に父の家にいるのだから
> 放蕩息子のたとえのように
> 息子は父の、息子への無償の愛に
> 気づかなければなりません。

 希望さん、はじめまして。ようこそいらっしゃいました。
 匿名希望さんと同じ方ではないですよね。

 私たちは既に父の家にいる、ということでしたね。
 それだったら、わたしたちはなぜ、「父のもとに帰らなければならない」と言われる
のでしょうか。

 ふだん私たちは、父(=神、あるいは宇宙の意識)に対してどのような意識を持っ
ているのでしょうか。もしかしたら、ほとんど注意を払っていないのではないでしょう
か。
 わたしたちは、太平洋の真ん中で漂流した船に乗っていて、水が飲めずに飢え乾
いている人間に例えられると思います。回りには水がたくさんあります。しかし、それ
は塩辛くてとても飲めないのです。
 半透膜という膜があります。これで隔てられた容器の一方に海水を入れ、少し圧
力をかけると、その膜から真水が浸みだしてきます。こういう装置があれば、太平洋
の真ん中でいくらでも飲み水がえられます。しかし、そうした装置がなくて飲み水を
失うと、膨大な水の存在する太平洋の真ん中で水に飢え乾くケースがあるわけで
す。
 私たちは、父のもとに居ながら無知なために、似たような状態になっていると想像
できます。
 この状態から父のもとに帰って恩恵を受けるには、この例では、海水から真水を
製造する方法を知るのと同じことだと思います。これが「宇宙の意識との一体化」に
例えられるように考えます。

 聖書には第一のいましめとして「なんじ、心をつくし思いをつくして、なんじの主な
る神を愛せ」とは書いてありますが、それが何を意味するのか具体的に示してあ
りません。大抵のキリスト教徒たちは、神は天国とか聖書の中、あるいはどこか別
のところに存在するとイメージして、それに思いを致すだけでしょう。

 そうではなくて、人間の体の中でさえ90%の細胞群は宇宙の意識のもとで作動
しているのですから、そこにこそ我々の意識を向けるべきだと思うのです。
 宇宙の意識に完全に従っている植物たち然り、動物達や周囲の万物もまた然り
です。
 それは私たちのフィーリングをもって、はじめて感じ、知ることができるものでしょ
う。そのように、わたしたちには、素晴らしい知覚作用が与えられているわけです。

 こうして知覚作用が広がると、イエスのなされたような奇跡に近いことも理解する
ことが出来るのではないかと思うのです。

 イエスはある時、郊外に五千人の群衆を集めて説教をしていました。そして、夕
暮れ時になって、群衆達がお腹が空いてきた頃、弟子達を試したのです。

 皆がお腹が空いているが、どこから食物を買ったらよいだろうとか弟子達に問い
かけます。ピリポは200デナリのパンでもほんの一切れ分しか行き渡らないだろう
と答えます。
 1デナリとは、農夫の一日の稼ぎ分であり、ローマ兵士の一日の給料だったそう
です。それの二百人分の給料をもってしても、ほんの一口ずつくらいしかパンが買
えないというわけです。

 また、使徒の一人であったアンデレは、そこにいた少年のもつ「5つのパンと2匹
の魚」があるが、これだけではとうてい足りないと言ったのです。

 イエスは、それではとそのパンと魚を裂き、群衆に分け与えます。群衆も同じよう
に自分の分を分けては近くの人に与えました。それが広がると、五千人全員が満
腹して、なおかつ余った食物で12の籠がいっぱいになるという、通常では計算の
合わない結果となったのです。(ヨハネによる福音書:第6章)

 たぶん、どこかから湧いてきた食物があったのでしょう。あるいは食物を買いに出
かけた人たちとか、ふところに用意してきた人たちが大勢いたためかもしれません。
昔は皆、歩いて往来していましたので、遠くから来た人たちは、手弁当持参でイエス
の説教を聞きに来た人が多かったと私は考えています。当時の主食はパンでした。
その人たちも、イエスがやったように、自分の持参したパンを裂いては隣人に渡して
いったのです。それで食物を持参して来なかった人たちにも食物が行きわたったの
です。こうして、イエスと弟子達は自分たちの財布のひもを解かずに済み、「奇跡」
が現出したわけです。

 イエスと弟子達との差は「知覚力の差」とも「信念の差」とも言っていいでしょう。
 もしかしたら、イエスは集まった群衆達の、ふところの食物の量まで見通すことが
出来たのかもしれません。しかし、それができてもどうなるか結果はわかりません。

 ここでは、それと別に、イエスが常に教えていた事柄である、神の前に常に必要な
ものは満たされるという信念が必要だったわけです。アンデレはそれを忘れて、常識
的な思考に陥るという過失を犯したのでした。

 わたしは、アンデレに対して、常識的な見地からは何の非難も見いだせません。
ただ、彼を越える知覚力をなんとか持ちたいと願うのみです。

 ・・・・・思わず多言を労してしまいました。

 Junichi
 
P.S.この文章は以前にUPしたのですが、ちょょっと見当違いな部分があり削除し
    ていただいたものを、あらたな要請により再UPさせていただきました。

P.S.2 砂漠や海の船の上で真水を取得するには、鍋とビニール、小石、それに
      コップ等を利用した簡便な方法があります。



フォローアップ:



フォローアップを投稿

氏名:
E メール:

件名:

コメント:

リンクの URL (任意):
リンクの題名:
画像の URL (任意):


[ フォローアップ ] [ フォローアップを投稿 ] [ 日本GAP横浜支部 BBS ] [ FAQ ]