アダムスキー哲学と人間の目的

S.Fumiko

 

 「人間は、そして自分はいったい何の為に存在しているのだろうか。」これは誰しもが一度は考える問題だと思います。私もアダムスキー哲学に接する以前に人間の存在理由、存在目的についてひたすら、考えたり解答を求めて宗教書、哲学書を乱読したりしました。でもその時には納得のできる解答を得ることができませんでした。しかし今は完全な解答をアダムスキー哲学の中から見いだすことができます。

 

 私達は存在するだけの理由と目的を持って、今ここにいることだけは間違いないと思います。決して理由もなく偶然に存在しているとは思えません。

 

 では人間の目的とはいったいなんでしょう。「学ぶことと奉仕すること」それが人間の目的だとも言われています。アダムスキー氏は『生命の科学』の中で「人間の大きな目的は宇宙の英知の無限の表現であるように思われます。・…」と述べています。宇宙の英知の無限の表現――これは人間全体の大きな目的のように思われますが、私達個人個人にもそれぞれの目的があると考えられます。この地球上には何十億という膨大な数の人間が住んでいますが、みんな何らかの目的、理由を持っているのではないでしょうか。目的の持たない人などいないでしょう。たまに、「自分なんて生きていたって仕方がない。」などと軽々しく口にする人がいますが、私達は誰でもみんな立派な目的を持っているのですから、もっと自分の存在に対して自信と尊敬感を持つべきではないかと思います。

 

 私達はとかく自分と他人、AさんとBさん、というふうに何かの面につけ比較しあい、ある時は自己満足し、優越感を味わったり、自己嫌悪に陥ったり、嫉妬や羨望の念を起こしたりしますが、そんなことは何の意味もない無価値なことだと言わなければなりません。なぜならみんな異なる目的を持っているからです。当然おのおのの目的に応じて能力の現れ方も違うのですから、比較する基準などありはしません。

 

 ちょっと目を転じて自然界の美しい花々を見てみましょう。温室にはあたり一面に芳香を漂わせ、ひときわ美しく咲き誇っている大輪の真紅のバラを見つけることができます。どこかの家の軒下の小さな花壇では黄色いチューリップが黄金色のお日様の光を浴びながら、満足げに春風に合わせてダンスをしています。ずっと遠くの山の麓の緑生い茂る野原では、まだ真珠のような朝露をつけた小さなうす紫色の可憐な野すみれが人知れずひっそりとその身を震わしています。

 

 それらの花はそれぞれの場所で無心に至上なる宇宙の英知――創造主を表現し、その目的を果たしているではありませんか。どの花も精一杯自分を表現しているだけで、決して他の花になりたいなどとは思わないでしょう。私たちもそうあるべきだと思うのです。人のことをあれこれ気にかける前に自分の使命と目的を追求し、遂行のために全力を注ぐべきではないでしょうか。常に自分にとって最高の自分であればよいと思うのです。私たちが自分に与えられた能力の全てをかけて創造主を表現するように努力することは、この地球という楽園にいろいろな種類の美しい花々を咲かせることにも通じると思うのです。そのどれもが創造主の一面であり、必要だということはいうまでもありません。

 

 私たちが人生の中でアダムスキー哲学に接することができたことは非常に幸運なことであり、素晴らしいことだと思います。しかし、本当に大切なのはアダムスキー哲学を知識として知ることではなく、いかにして実際の生活の中でその知識を応用実践し、自分の生活をよりよい状態にしていくか、そしていかにして自分を宇宙的な方向に進歩させていくか、だと思います。どんなにすばらしい思想でも、単に知識としてとどめておくだけでは何のプラスにもならないだろうし、本当に進歩することもできません。実生活の中で実践してこそ初めて生きた知識となり、自分自身のものになり得るのだと思います。

 

 

 「意識と心を一体化せよ」というアダムスキー哲学を実践するためには、相当な信念と忍耐力、意志力を持たなければなりません。しかし私たちが本当に楽しい、すばらしい生活を持とうと願い、宇宙的な人間になろうと切望するなら、絶対に成し遂げなければならないことです。

 

 この世界に存在する万人、万物は至上なる宇宙の英知によって活かされています。万物の中に創造主である意識が存在しているのです。その意識は私たちが何をしようと、食べようと決して逃げていくことはなく、絶えず私達を正しい方向に導こうと印象を送り続けています。意識からの印象に耳を傾け、それに従って行動しさえするなら日常生活における万事がうまくいくほか、永遠の生命を得ることができるのです。しかし私達は生まれたときからそのように生きることを教えられてないためにほとんどの人が感覚器官で成り立っているセンスマインドがくだす、誤った判断のもとに生活しています。それが全ての悲痛や苦悩の原因であると言われています。

 

 私達はとかく日常のほんの些細なことですぐ悲観的になり、あれこれ心配したり悩んだりします。私にもそういう面が多分にありますが、特に以前はひどいものでした。外界のちょっとしたことですぐに動揺し、迷い、悩み、悲しみ、気づいたときには悲観的な想念の塊のような状態になり、手もつけられない程でした。何でもない小さな問題をあまりにも深刻に考えすぎ、かえって問題を大きくしてしまい、完全にその問題に振り回されていたのです。

 

 人生において誰しもが大なり小なり問題に直面すると思いますが、ひとつの絶対的信念と確信さえあればいかなる問題であろうと克服できるのではないかと思います。――自分の内部には全知全能の創造主(神)が存在しているのだ――という信念と確信です。いったい創造主に解決できない問題などあるでしょうか。答えは否だと思います! 何かの解答を必要とする時は、その問題に関してあれこれと心で考えることをやめ、絶対に正しい解答が得られるんだという強烈な信念を持つと共に心を受容的な状態にしておくなら必ず内部の意識から、完全な解答とアドバイスが与えられるでしょう。

 

 本来、人間は人生を楽しむために創造されたのであり、決して悲しんだり苦しんだりするためではないと思いますが、進歩する過程において悲しみや苦しみの体験も必要な一つのレッスンではないかと思います。苦しみもそれ自体苦しみでなくなる為にも(自分の性格を変えることなどによって)必要な体験だと思うのです。誰もが持っているように私も二度と思い出したくないような苦しみや悲しみの体験を持っています。(まだ人生経験の浅い私であり、他の人から見れば何でもないことだったかもしれませんけれど…・)。しかし、考えてみれば今の私が存在するためにはそれらの体験も必要だったと思うのです。かと言って自分から好んで苦しみや悲しみを体験する必要もないし、過ぎてしまった苦しみや悲しみは、忘れることが一番良いと思いますが……。

 

 多くの困難な問題に打ち勝って成功した偉人達の話を私達は良く知っています。それらの偉人達について私達はどのように考えるでしょう。「彼らは不可能を可能にした実にすばらしい! しかしそのような能力をもつ人はそうざらにはいないだろう。」もしもそう考えるとしたら非常に偏狭で消極的だといわねばなりません。宇宙的な人間を目指す私達なら「彼らは実にすばらしいが同じ人間なのだから彼らにできたことは私たちにもできるはずだ」、と建設的な方向に考えるべきではないでしょうか。ある人が不可能と思えることを成し遂げたのであれば、自分もそれを必ず実現できるのだという強烈な信念こそ前進する上で最も大切なものだと思います。全ての物事において限界があるのはマインドだけであり、意識には限界がないことを知ることは重要なことです。私たちが自己限定さえしなければ人間の持つ能力は無限です。

 

 

 デパートに買い物などに行くとあまりの商品の数の多さに目移りし、どれを買ったらよいか迷うことがしばしばあります。「こんなにたくさんあるけど全部売れるのかなあ」と思うのは私だけでしょうか。人間の嗜好が多様化している現在、市場に多くの商品が出回っているのはわかりますが、私たちは無駄なことにお金と労力をかけすぎているような気がするのです。

 

 そのことは私たちの想念に関しても言えるのではないでしょうか。想念観察をしてみると一日の間にどんなに多くの想念が湧き起こるかがわかります。(人間の想念の働きは一瞬たりとも停止せず、絶えず働き続けているのですから)不平、不満、怒り、疑惑、または親切、感謝、喜び…、それらの想念が数限りなく湧き起こります。ここで注意しなければならないのは、それらの想念に支配されてはいないかということだと思います。たとえば、「不安」という想念が湧き起こったとします。そしてその想念を終始心から離すことなくあれこれと考え、気づいたときにはもう何も手につかない程「不安」の気持ちでいっぱいだ……こんな場合、想念に支配されている状態と言えないでしょうか。何かの想念が湧き起こり、それがすぐに非宇宙的なものだとわかってもそれについてあれこれと思いを巡らすことは、時間とエネルギーの浪費とは言えないでしょうか。

 

 人間は一度に二つのことについて考えることはできません。ですから当然非宇宙的想念にとらわれている間は宇宙的なことを考えることはできません。もちろん内部の意識からすばらしい印象がきたとしても感受することはできないでしょう。

 

 また、非宇宙的な想念にとらわれ、時間とエネルギーの浪費であるばかりか、長く続けば「類は類を呼ぶ」という法則に従って良くない状態を自分自身に引き寄せる原因にもなりえます。こう考えてみると私たちが放つ想念の重要性がわかると思います。私たちは自分の想念に支配され、振り回されるのではなく、逆に想念を支配し、非宇宙的な想念に関しては決して自分自身を預けなよう努力することが大切だと思うのです。

 

 私たちは進歩しようと思うあまりあせり過ぎてもいけません。今の自分の状態は何年、何十年という長い年月の中で培われてきました。その事実を認めるならば、私たちはもっと忍耐強くならなければなりません。この世界に生まれてから今まで何年もの間、習慣的な想念によって支配されてきた自分自身を、とても一日や二日で変えることはできません。焦らずに落ち着いた気持ちで、想念観察によって自分の想念パターンを知ることからはじめ、その習慣的な想念を宇宙的な方向へ切り換えるように努力しなければなりません。それを毎日続け、自分にとっての新しい習慣を確立する必要があります。そうすることによって自分自身の中の習慣的な細胞群を宇宙的なものに変化させることができるのです。緩慢な進歩であっても確実な一歩こそ私たちを真の進歩した状態へと導くのです。

 

 しばしば久保田先生はありとあらゆる物に対して無差別に、何の報酬も求めず放射線を送り続ける太陽のような生き方についてのすばらしいお話をなさいます。先生もおっしゃっるように自分自身を太陽にたとえて万物に対し慈悲、愛情、親切などの放射線を放って生きるならば、それはもう最高にすばらしことであり、創造主はそのように生きる人を決して不幸な目にあわせたりしないと思います。

 

 

 アダムスキー哲学はただ単に高度な知識を身につけたり、能力または超能力などを開発するためだけの哲学ではありません。自分自身を精神的な意味でも成長させて、創造主に近づける為の哲学でもあるはずです。(もちろんそのためにも高度な知識や超能力なども必要でしょうが。)

 

 創造主は私たち全てに対して何も求めず必要物の全てを与えています。ただ与えているだけです。それ故にこそ私たちもそうあるべきだと思うのです。太陽を観察してもわかるように、「愛」や「慈悲」「親切」などが創造主の属性であるなら、創造主の息子や娘である私たちもそのような性質を自身の中に持ち、かつ実践する必要があると思います。

 

 私たちは愛や慈悲の精神、親切や寛容などをのぞいて偉大であることはできません。私たちがアダムスキー哲学と呼んでいる、他の高度に進化した惑星に住む偉大なスペースブラザーズ・シスターズによって私たちに伝えられたすばらしい哲学は、この地球上に永遠の平和と幸福を確立するために私たちに与えられたものです。そしてこの地球上に本当の平和と幸福を確立する上で、愛情や慈悲の精神、親切さなどは最も大切なものではないかと思います。

 

 

 宇宙の法則は普遍であり、存在するもの全てにとって絶対です。どんなに時が移り変わっても永久に変わることはありません。そしてもし私達が宇宙の法則を守らなければ宇宙の法則によって自ら我が身を滅することになります。

 

 私達はたとえ他人と世間の目をごまかすことができても、真の自分自身、そして創造主だけは決してごまかすことができません。何を考えようと、何をしようと必ず何らかの形になってわが身に返ってきます。

 

 最後に私達人間は創造主と人類に奉仕するためにこそ存在していると思われます。