浄化ということ


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投稿者 koniyama 日時 1999 年 8 月 23 日 13:09:54:

今年はマンションを購入したこともあって、
精神的にもずいぶんと変化したように思います。

そんなわけで、生活の基本的な面をもう一度見直そうということで
まずは水の調整からとっかかりました。
私どもの家庭ではもう10年ほど浄水器を使用しているのですが、
これで塩素などの化学物質は完全でないにしろ、まずは除去できます。
だけど、それだけでは落ち度がありました。

最近では波動関係の本がけっこうたくさん出ていて、
私はとくに江本氏の本を何冊か読んだのですが、
これは非常に参考になりました。

民間レベルで、宗教臭さ抜きで、
具体的に、波動の研究が行われる時代になったということは
画期的なことではないかと思います。

要は、「水は波動の記憶媒体である」ということなのですが、
波動的な面から水について考え直す、いいチャンスとなりました。

簡単な例でいうと、
たとえば、鉛管のなかを通過した水は、
物質的に鉛を溶かさないにしても
鉛という元素のもつ、波動を記録してしまう。
そうした水を長年にわたって飲みつづけると
体内に鉛の波動に親和する部分(例では脳であったが)に、
そこに実際に食物や水の中に存在する鉛が吸引され蓄積されて、
病気の原因になったりする...ということでした。

ちなみに水道の水は波動的には
かなりひどいことになっているようです。

これはいやだなと思ったので、
水の波動調整をすることにしました。
ペットボトルに波動を調整する石をいれて
その汲み置き水を料理や飲み水にしたのですが、
いまのところ、手間以外に、問題はないようです。

確かに水はおいしくなりますので、
これは正解でした。金魚も元気です。

実際にどんな「すごーい」効果が出ているのかどうかは
私たちが深刻な病気などを抱えているわけではないので
長期的にみる以外にありませんが。
まあおいしく感じれば効果ありということでしょう。

さて、ここで気づいたことは、
波動は自分で調整できるということでした。
最近では波動転写機などというものが出回っていて、
欲しかったのですが、結構高価だったので思案中でした。
そこで、パソコンで水の波紋を二つ重ねたような図形をつくり
いわゆるテンプレート転写機とも呼べるものですが、
それで複写の実験をしてみました。

これにはある作業をして、スイッチオンにしなくては
ならないのですが(自分の場合)、
確かに波動はこれでも複写できるようなのです。
自分自身の波動を水に複写してみたり、
塩素を弱める波動がどういう具合に
水に影響するか等を実験してみたりしました。
ここで、わかったことは、
波動の複写には自分の念の力が
働いているということです。

自分の念の力で波動がコントロールされているということは
新鮮な驚きでありました。
日常生活で我々は知らず知らずのうちに、
どうもその力を行使しているようなのです。

我々は、食事の前に「いただきます」といいますが、
あれも習慣で言っている限りはわからないでしょうが、
その本質は究めて合理的なのだということに気づきました。

現在では、家そのものを浄化しておこうという発想で
いろいろ実験をしています。
浄化とは波動をきれいにするということですが、
どうもこの浄化するという発想が
非常に大切なように最近感じます。

実際には、家の中は子供が散らかし放題にしてくれますので、
一見浄化どころではないような悲惨な状況ですが。

世の中にはいろいろな立場でその必要性が説かれていますが、
基本はやはり浄化ということでしょう。
考えてみたら、我々日本人は、お清めということばを
なんの違和感も使っていたり、日常生活で実践しています。
いわゆる地鎮祭もそうだし、
葬式からのかえりに、塩をまいたりするのも、
波動の調整作業ということになります。

こうなると、習慣や迷信のなかにも
実際には、非常に合理的な波動科学の応用と思えるものがある
ことが見えてきます。
というわけで、いつのまにか信心深くなっている私なのでした。
合掌。

さて、地球にきている宇宙人は
太陽系の清掃局の人々ともいえなくはありません。

これは冗談です。

以上

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おまけのひとりごと

最近ではこの分野でもいろいろな主張がありますが、
いろいろな発想をされることが、トータルでは必要なことであり、
この世の中から、消去法的に何が真実かを求めていく生き方は
つらいのではないか、と考えるようになりました。

だから私個人としては、アダムスキーを支えに
消去法により真実を捜し求めるというやりかたには
駆け出しの最初は仕方ないにしろ、
やがて袋小路や迷路におちいるのではないかと思います。

自分自身の信念を固めるために、つねに証拠を捜し求める
という生き方には、出口が見えないような気がします。
大道を再び見失うとはそういうことなのかもしれません。

それよりも、いろいろな意見を参考に自分で実験したり
しながら、自分で発見し、納得していくことが大切だと思います。
その過程での思い違いや、思い込みは全く許されると考えます。
ですから自由に考えたり、おこなったりすることが、結果として、
アダムスキーの体験を確証することになるのではないでしょうか。

アダムスキーの言っているのは、
悪い想いをもってはだめとか、
信念がなくてはだめとか
テレパシックでなくてはだめだとか、
UFOをみなくては一人前ではないとか、
そういうことではないように思います。

でもなぜかそれを道徳的、倫理的な枠組みにおきかえられて
悩まれている方が非常に多いように思います。
それならアダムスキーなど知らない方が
もっと気楽で幸せで自由に動けるでしょう。
いずれは後輩を指導しなくてはならなくなるGAPの先輩がた
はこの点をどう思われているのでしょうか?

まじめな方が多いGAP関連のHPのなかで
こんなことをいうのも気が引けるのですが.....
ちょっと感じたものですから。



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