0に敬意を


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投稿者 日時 2003 年 8 月 03 日 01:49:30:

前述しましたアダムスキー氏の言葉をもう一度引用させていただきたいのですが、「ゼロによって表現されるような休止または無の状態は自然のどこにも存在しない」ということが大事だと感じます。

あまり言葉をいじりまわすのは得意ではないのですが、
お皿の上にアメが1個あったのを食べてしまったらアメは0個に
なった(無になった)と言うよりも、噛み砕かれて胃袋へ移動したと言うのが自然の状態ではないでしょうか? 場所と存在形態の変化を「無」と表現してよいのでしょうか?

自然界のいかなるものも「有」から「無」に完全消滅させることができないのに、数学の中でそれを可能にするのなら、数学は自然科学とはいえなくなりませんか?

私がなぜそう思うかという理由は、繰り返しになりますが、
ゼロは無=無限=絶対=創造主=因の世界
1〜9は有=有限=相対=被造物(陰陽)=結果の世界(自然界)
と考えるからです。こういう捉え方は私には当然と思えてしまうのですが、違和感のある方へはこれ以上理屈で説明ができませんのでご容赦ください。

ただし私自身は、1という数字は、無と有の両方の特性をもつと考えており、だからこそ、因と結果、つまり創造主と被造物は分離した存在ではないと思っています。簡単に言えば、この自然界のどのようなものでも、それ以上細かくできない絶対の1というのはありえない(無い=0)ので、1の集合体である2〜9の本質は0であるといえるのです。
つまり0は有の存在の因だと思うのです。

因である0を、有=自然を扱う科学の数式に導入してしまうことは、
宇宙哲学で言えば、「宇宙の意識」を被造物であるマインドや肉体と同格に扱うこと、
つまり宇宙の意識は感覚器官から作られたもの、もしくは脳内作用の
産物と言うのに等しいと思うのです。

ゼロが数学に不要と切り捨てることは、ゼロを偉大な因の存在として最大の敬意を払うことだと思います。

有は無の反対ではなく、無が有を存在させ、有が無を表現する。
これは古代の東洋思想にも通じるように感じます。
無を空っぽともいえますが、東洋哲学では「空(くう)」が偉大なもの、すべての可能性を内含するもの、すべての因とされているのは周知のことです。

私たちは、無という言葉を日常生活でも2通りに使い分けています。

「無くなっちゃった」と言うのは、移動もしくは形態の変化であって、
水が蒸発してもゼロになるわけではないように、消滅ではありません。
それに対して「心を無にして取り組む」というのは、「心ここにあらず」とは意味が違います。

これに対して、地球の現代数学ではゼロの意味を上記の「無くなっちゃった」の意味でのみ扱っていることに、私は違和感を覚えるのです。

「じゃあ、どうするの?」という質問の答えにはなっていませんので、それはこれから考えていきませんか?




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