数の数え方


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投稿者 瑠璃 日時 2000 年 5 月 21 日 00:20:46:

/*−−−−−メモ5月20日
先日ニューズレターのPDFをDLした。
勿論アグニュー・バンソンの話を読みたいがためだ。他はどうでも良い。
彼の話は円盤の構造についてではなくてちょっとガッカリ。
No.2の3頁で1+1=3や数え方の話が載っていたのは驚いた。
直感によって答えを得たものは39年前から話されていたことだった。
こんな昔に示された問題を解いていたのだ。なんか…ヘンに納得した。
読んで数時間後に「数の数え方3」を書いた。
「数の数え方」は1〜3全体で意味を持っています。
3つの文書を全て読んで考えてください。
尚、文書「数の数え方1〜2」の作成日は4月25日です。
それ以来手を加えていません。
−−−−−*/

1 2 3 4 5 6 7 8 9
9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 9.7 9.8 9.9
18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 ・・・
異星人の数の数え方を話したことがある。
哲学的に「無限・永遠」と関連すると述べた。
そして今回、もう一つの重要な概念が明らかになった。
「存在」
これが異星人の考え方の根幹であるように思われる。

英語には実に興味深い文がある。
There is nothing.
「何も無い。」と訳す。
「There is 〜」は「〜がある。」と訳すように教わったはずだ。
「nothing」は代名詞であり「何も…ない」の意味である。
つまり直訳すると
「何もないものがある。」
となる。
この文章が現在の数学の限界を正確に示している。
そのことを理解すれば、さらに先があることもわかる。
宇宙は「There is something.」であり「There is everything.」なのだ。
読み進むにつれて明らかになるだろう。

小学校では零の概念は後になってでてくる。
1+2=3
という数式をはじめに教わり、
1+0=1
という数式を後に習う。
なぜ零が後になるのか?

零の概念を教えるのが難しいからだ。
例えば碁石を使って教えるとしよう。
「左手にひとつ、右手にひとつ持ちます。
 じゃあ手を合わせるといくつになりますか?」
生徒は「ふたつ」と答えるであろう。
なぜなら、片手に一つずつ碁石があり、
両手を合わせると二つの碁石がそこに在るからだ。

では零の足し算ではどうか?
「左手にひとつ持ちます。右手には何も持ちません。
 手を合わせるといくつ?」
生徒は「ひとつ」と答えるだろうか?
なるほど、確かに両手合わせたそこには一つの碁石があるかも知れない。
1+0=1
という数式を漠然と理解するかも知れない。
しかし、子供は時に面白い疑問をぶつけるものだ。
「無いものは数えられません。足して良いの?」

このあたりから少々込み入ってくる。
疑問の意味を考えると次のようになる。
@1+0=1という数式は成立するか?
A「零」という名称を持つものは存在するのか?

@についての考えを保留し、先にAを考察してみよう。
先ほどの例では左手に一つ碁石を持ち、右手には何も持っていなかった。
ここで左手が持つ碁石にサインペンで「1」と書いてみよう。
左手には「1」があり、右手には何もない。
両手を合わせるとどうなるか?
「1」と書いた碁石が在る。

次は別の例を考えてみよう。
両手に一つずつ碁石を持っていて、サインペンでそれぞれに数字を書く。
左手の碁石には「1」、右手の碁石には「0」と書く。
両手を合わせるとどうなる?
「1」と「0」を足したらどうなる?

ちょっと待て。
君が次に言いたいことはわかっている。
「碁石に"0"を書くことはナンセンスだ。」とね。
確かにその通り。
零は「何もない」「無」の象徴である。
だから、存在している碁石に"0"を書くことに意味はない。
そこに気づいたらしめたものだ。

碁石の数を考えよう。
左手に1つ、右手に1つ碁石があった。
両手を合わせると2つである。
2つの碁石はそこに「在る」のだ。
1+1=2である。
これが数の概念。

では、碁石に書いた数字はどうなるのか。
両手合わせても数字の「1」と「0」が在る。
「0」はそこに「在る」のだ!!

数式で言えば、
1+0=1+0
碁石を左右逆に持つならば、
0+1=0+1
である。
それが、
1+0=1
となることはあり得ない。
なぜなら、存在しているものを無視した記述だからだ。
碁石に「0」と書くことにトリックがある。

ここまで来ると、
@1+0=1という数式は成立するか?
という疑問について答えられるだろう。
答えは、
「ある条件において成立する。」
となる。
ある条件とは、
零を認める限り
現在の技術を正確に制御するため、値を算出する時に限り
ということだ。

また、
1+0=1
という数式は、逆説的に言えば、
「存在しないものは無い。」
と言っているにすぎない。
左辺が問いかけを続ける今の地球人であり、
右辺はその未来とでも言えようか。

零の発見によって数学、文明が発展していった。
それは否定しない。
実際、技術的な発展は零の概念の導入によるところもある。
しかし、意味や本質を探究しようとせず、数式に頼っているとどうなるのか。
もっと正確に意味を知るべきなのだ。
もしかしたら、存在しない碁石を探そうとしてないだろうか?

碁石は存在そのものということ。
そして、子供が手に1つずつ碁石を持ち、
両手を合わせると2つになると実感すること。
「存在」とはいったいどういうことなのか?
すなわち「無」は認識できるのか?
素晴らしき意識の問題である。

ここまで書くと、最初に挙げた数の数え方は理解できるだろう。
1 2 3 4 5 6 7 8 9
9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 9.7 9.8 9.9
18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 ・・・
これは存在しているものを数えているのだ。
よって、「0」は使わない。
言い換えれば"零を使う10進法"の変形である。
唯一の違いは、零を数えるかどうか、零を認識するかどうかだ。
これは
「蛙のへそは無い。無いものは数えない。」
という方法であり、
我々が日常使っているのは
「蛙のへそは0個ある。無いものを数える。」
という方法である。

記述の方法が少し違うだけなのだが、
彼らは物事を多角的に捉え、概念を自在に操る力があることがわかる。
現代地球数学も否定されずに含まれていることもわかる。
概念を自在に操れるということは、
自分の認識する世界に束縛されないということだ。
認識の壁を超えるために必要なただ一つのキーワードはこれだろう。
「自由」


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