意識の声 No.106 より

1999年5月号

 

 全国の維持会員の皆様にはお元気でお過ごしのことと存じます。平素はひとかたならぬご援助にあずかりまして満腔の謝意を表させて頂きます。

 

 さて、陽光きらめく五月晴れの季節になりました。寒かった関東平野の空っ風もやっと暖かい絹布団に変わって人間達を祝福しているかのようです。この四季の変化を考察しますと創造主の至上なるみ業に感歎を禁じ得ません。人間を創造されたのが全くの無責任な計画ではなくて、徹底的な配慮のもとに行なわれたことを実感致します。有難きかな大宇宙の創造主様!と天を仰いで拝礼致す次第です。

 

 

 

★英語学習法について

 

 英会話といいますと、その学習法が問題となりますが、毎日新聞の四月一六日付夕刊に大変興味深い長文の記事が出ました。筆者はアメリカ人国際経営コンサルタントのジョージ・フィールズ氏で、日英両語をあやつるバイリングァルの人。それによりますと、日本人の英語ベタは今や世界の七不思議の一つになっているというのです。つまり日本人の英会話は全くダメであって学校で一体何を学習しているのか。あまりに文字ばかりに頼るから会話が出来ないのだろうと痛烈に批判しています。世界的な英語能力検定試験でTOEFL(トーフル)というのがありますが、一九九六年の国民生活白書によりますと、この試験で日本はついに一八○位に転落してタイにも劣る世界最下位に陥落したそうです。日本人の知能が劣るわけではなく、むしろ数学や科学では世界のトップクラスの優秀な面を示すのに、コト英会話になると赤ん坊程度の話が出来ないという英語後進国になったということです。

 

 フィールズ説によれば、「日本の語学教育は文字を読むことによって目から入る。これは耳から入らなければダメだ」と言っています。たしかにそのとおりで、中学に入れば英語の授業は教科書を読むことに主体が置かれ、最初からやみくもに文法を教えて、やれ五文型だの主語動詞だのと教えますが、これでもって生徒は拒否反応を示すかまたは関心を失うだけで、さあ外国語をしゃべるんだという新鮮な好奇心を失って英会話能力とはほど遠い状態になってくるのです。

 

 どうすればよいか。秘訣は英語学習を学問として扱うのではなくて、遊びの対象として気楽に学ぶことにあるのです。かなり以前に私はユーコン誌に英語学習法に関して少し記事を書いたことがあり、その中で「遊びの感覚でやるべきだ」と強調しましたら、会員で英語の教員をやっていた女性が「これでGAPをやめる」と通知をよこしたことがあります。外国語の学習は立派な学問の分野なのに遊びとは何事かと忿懣にかられたのでしょう。日本の大臣はほとんど例外なく英語がしゃべれず、そのためにサミットなどに首脳が出席した場合、実際に重要なのは首脳同士が通訳なしにヒソヒソと個人的に話し合いをすることにあるのですが、日本の首脳はこの業が全く出来ないので大損をしているとも言われています。このようにみてきますと日本の英語教育のあり方を根本的に変える必要がありそうですが、さて、どうなりますやら。四角ばった日本の教育行政では容易に改善はされないでしょう。

 

 そこで個人的に英会話を学ぼうとされる人は、自分独自の方法を編み出して練習を行なうとよいでしょう。問題は実用的な英会話の参考書を入手して会話用英文を片っ端から丸暗記することにあります。美味な食物をモリモリと平らげるような調子で英会話文を次々と腹の中に納めてしまうのです。要は「覚えればいいんでしょ?」という軽い調子で簡単な会話文から丸暗記してゆくのです。このように言いますと「ただの丸暗記ではダメだ。応用をきかせるように学ばないと役に立たない」という英語の先生方がいますけれども、冗談じゃない、私達は毎日英米人と付き合っているわけではなく、海外旅行を除いて外国人と英語で話し合う機会などはほとんどないのですから(私もそうです)応用をきかせるもヘチマもありません。そんなことを言っていたら百年たっても英語は身につきませんので、そんなへ理屈は無視して、とにかくガムシャラに会話用英文を片っ端から丸暗記するに限ります。「覚えている言葉は口から出てくるけれども、忘れた言葉は絶対に口から出ない」という千古不滅の法則があるのです。これは母国語の日本語でも忘れた言葉は口から出てこないのですから絶対的な法則です。

 

 私は戦時中、山奥で土方生活を二年ほどやりました。一九歳から二〇歳にかけての頃です。中国山脈の奥に発電所を建設する工事に従事したのです。現場には朝鮮人の人夫が沢山来ていました。彼らは体力の弱かった私を当初はバカにしましたが、私は彼らに英語を教えて、その見返りに朝鮮語を教えてもらい、簡単な日常会話を朝鮮語でやっていましたから、ついに彼らから大いに尊敬されるようになりましたね。当時彼らは日本人から人間扱いにされなかったのに、私は彼らの言語を習得したのですから「日本人の親方が自分達の言葉を覚えてくれた」というわけで大変な名誉だと思ったようです。その当時私が朝鮮語を覚えたのは全くの遊び感覚で耳だけで覚えたのでして教科書でハングルを学習したのではありません。それでよいのです。言葉を覚えるというのはこんなものなのであって、難しい学問だと決めてかかったらもうダメです。

 

 戦後高校の英語教員になって教え子の韓国人生徒から韓国語を本格的に教わりましたが、このときも教科書などは使用せず、耳から耳への伝達法で習得しました。話がそれますが、当時私の勤めていた学校には韓国人の生徒が多かったのですが、みな秀才ぞろいでした。彼らは私によくなついていましたが、今はいずれも全く消息不明で、ただ懐かしく思うだけです。

 

 来世紀の中頃までに英語が世界の共通語になるという説があります(ある意味ではすでに共通語になっています)。したがって日本人は英語を第二母国語にしなければ世界の大勢から逸脱して没落するだろうともいわれています。これは無視できない傾向です。こうまで英語劣等国に転落したのですから、この問題はいずれ政府レベルで真剣に検討されるようになるでしょう。実は私自身も英語を忘れる一方でして焦燥を覚えるのですが、なにせ超多忙のために勉強する時間がないのが残念ですけれども、なんとかして母国語のレベルまでに引き上げようと考えています。むかし一九七五年の一一月に単独で初めてアメリカ旅行を敢行して、かつてアダムスキーが住んでいた家でアリス・ウェルズ女史と三日間語り合った当時は、ほとんど母国語のように英語を話しましたが、あの当時に比較すれば今は大後退の状態です。とにかく英語を使用する機会がないために英会話文を忘れるのです。でもこれは弁解の理由になりません。ひたすら老骨に鞭打って頑張るつもりです。ついでにギリシア語とラテン語も学ぶ計画を持っており、いずれはこの両語で書かれた聖書を読むことを念願としています。七〇歳半ばでそんなことをやるのか? と目を丸くする人はいないでしょうね。私はまだ三〇歳前半の気分です。皆さん方も頑張って下さい。

 

 

 

★才能よりも努力で学ぶ

 

 前述しましたように、私は生来外国語を習得することが好きな性格ですが、これは過去世からのカルマに基づいています。つまり過去世で英語圏に住んでいたのであって、その記憶が強く根づいています。ですから小学生の頃から英会話の本を買ってきては独習をやっていました。こうした何かの特異能力または才能は両親からの遺伝もあるでしょうが主として過去世から持ち越したものであって、それによって今生の学習の好みが決まります。こうしたことはまだ一般に全く理解されていないのですが、学校教育で画一的に教えることがいかに間違っているかが分かります。

 

 しかしいずれ別な惑星の大文明が解明されて凄い進化をとげた人類の存在が知られるようになれば、地球の教育制度も根本的に変わるようになるでしよう。たとえば金星あたりの学校教育は画一的なものではなくて、各自の学びたい物事だけを学べるシステムになっているようでして、試験もなければ採点もなく、全くの自由な状態であるようです。彼らは生来凄いテレパシー能力や高度な知能を持つようですけれども、未知の物事については地球人と同様に新たに習得する必要があるようです。アダムスキーが宇宙空間に停止している大母船に乗り込んで、オーソン氏と一緒に別々な丸窓から顔を覗かせている写真がア全集の第一巻に出ていますが、あのときアダムスキーはポラロイドカメラを携行したとあり、それを他のSPに貸して撮影を依頼したところ、そのSPは使用法が不明なのでアダムスキーに教えてもらったという記述があります。これなども彼らの知能と知識とは別問題であることを示しています。彼らがこの状態なのですから、我々地球人が未知の事柄に関して学ぶことの重要性を痛感する次第です。四月二二日の夕方のテレビで、大阪の九四歳になる老人が近畿大学の二部(夜間部)に入学したというルポをやっていましたが、これには大感動しましたね。しかもその老人の奥さんは寝たきりなので、その面倒も見ながらの通学です。この壮大な意気込みと夫婦愛には心底から打たれた次第でした。しかもこの老人は大学院まで出て博士号を取る計画だと述べておられました。世の中にはこんな物凄い人もいるのですねえ。

 

 

 

★絶対に存在するカルマの法則

 

 私はふだん大変に多忙ですが、だからといって書物を読まなくてもよいというわけにはゆきませんので、寸暇をさいて少しずつ読むのです。近ごろ読んだ本で感銘を受けたものの一つに児島裏著「東京裁判」があります。中央文庫の上下二巻セットで合わせて五〇〇頁の大作ですが、これほどに興味深いノンフィクションはめったにないだろうというほどの感銘を受けましたね。戦後連合軍に捕らえられた日本軍部の指導者達を連合軍が裁いて大物七名が絞首刑に処せられた大事件を描写した作品です。よくも超綿密に調べたものだと感歎しましたが、それよりも人間のカルマという問題を腹の底から感じさせられました。処刑された人達には気の毒ですが、それなりの因果の法則に従ったのでしょう。本人達に悪意はなかったと言える面もあるでしょうが、結果的には二五〇万の日本軍の精鋭を葬ることになったのですから(戦死者の中には私の松江連隊当時の同年兵が多数含まれています)全くの無責任の状態ではすまされなかったのでしょう。裁判自体が茶番劇だったという世評もありますが私はそうは思いません。厳粛なカルマの法則の発動そのものだったとみています。約五〇年昔、この極東軍事裁判の最後の判決の日、ウェッブ裁判長が東条元大将に向かって「Death by hunging!」(絞首刑)と英語で叫んだ声を私は自宅のラジオで聞いて「絞首刑だ」とつぶやいたのを今でも覚えています。

 

 

 

★天文学と宇宙物理学の大変化

 

 最近学研から出た「宇宙天体論」によりますと(この書物は当方へ寄贈されてきました)、この大宇宙の構造や性質等に関してはかつての理論を覆すほどの新しい発見が続々となされているので、科学的にみてもはや宇宙空間の本質が分からなくなってしまったという意味の高度な科学記事が出ています。そしてアダムスキーが唱えた大宇宙の意識(創造主)の存在を次第に科学畑でも認識せざるを得ない状態になってきたように思われるのです。これまでの天文学の理論が次々と打ち倒されて不可解な新事実が現われるのだそうでして、来世紀こそはアダムスキーの説が躍り出るのではないかと予想されます。所詮そうなるでしょう。この書物は高度に科学的な専門書ですが(B5判・一八○○円)皆様はよく理解されると思います。

 

 この本の最後の「あとがき」で編集責任者の矢沢潔氏が次のように述べています。「もしも読者の本棚に、いまから一〇年くらい前までに発行された宇宙についての解説書があるなら、それはもはやごみ箱に投げ込んでもさして惜しくはないと思います。なぜなら、その内容にはいつのまにかびっしりとカビが生えているはずだからです。我々の宇宙観は、二〇世紀の最後の瞬間に立ち至って変わろうとしているのです(以下略)」

 

 この矢沢氏は私がむかしユニバース出版社を経営してUFOの専門誌を出していた当時の編集長だった人で科学畑に強い人です。当時はアダムスキーにさほどの関心がなかった人ですが、今は結果的にアダムスキーの説に接近しつつあるのではないかといっても過言ではないでしょう。いずれにしても来世紀こそはアダムスキーが飛躍的に浮上するのは間違いありません。その情報は他からもあります。

 

 この地球社会で生きるのは楽ではありませんが、誰しもそれなりに生きる価値はあります。万物と万人を憎悪せず、逆に万物と万人の安泰を祈念しながら過ごせば素晴らしい報いがあるでしょう。皆様の平安をお祈り致します。
合掌再拝