意識の声 No.79 より

1997年 2月号

 

★地球の大地に足をつけることが先決問題

 

 GAPの若い本部役員間で、私は膨大な知識を持つ人間だと思われているようですが、ナー二たいしたことはありません。若い頃に知識の吸収を無視したものですから、今になって取り返そうという反射作用が働くのかもしれません。つまり若年の頃には「宇宙の真理さえ体得すればよい。世俗的な雑多な知識はむしろ有害だ」と思っていたのです。そしてアダムスキーが伝えた他の惑星群の超高度な文明に思いを馳せるばかりで足が浮いていましたが、これは明らかに誤りでした。

 

 むしろ地球世界で生きている人間は、その世界の知識を土台にしてこそ、宇宙的な方向へ目を転じることが可能になるのだと悟り始めたのは、さほど遠くない過去のことです。したがって私はかたっぱしから書物や雑誌に目を通そうとする傾向があります。これは少々行き過ぎの感がありますものの、まあいいでしょう。

 

 そんなによくも買えるものだと思われましょうが、お金が乏しいので、おもに書店で立ち読みするのです。しかし書店通いも限度がありますから、郵送を予約している雑誌類が少しはあります。私がふだんどんなものを読んでいるのかと好奇心にかられる人もあるでしょうから、参考までにあげますと次のとおりです。

 

 私が定期購読している雑誌は、ざっと挙げても「ニューズウィーク」「アエラ」「プレジデント」「三田評論」「ガイドポスト(アメリカより直送)」「ネクサス(オーストラリアより直送)」その他で、書店で毎月買うか立ち読みするものでは「新潮45」「文芸春秋」「中央公論」「日本カメラ」「アサヒカメラ」、各種の週刊誌、その他もろもろ。これ以外に書籍も読みますが、単行本は狭いマンション暮らしのために約二千冊の書物の置き場がなくて、一昨年、四〇〇冊の本を本部役員達にプレゼントして一六〇〇冊に減らしましたが、それでも置き場に困って私の六帖の寝室は本と資料の山になっており、その山に囲まれてベッドが埋まり込んでいるという状態です。人が見たら驚くでしょう。フランシスコ会の修道士みたいに、何もないガランとした部屋で腰に縄を巻いて一人瞑想にふけるという生活にあこがれますものの、ほど遠い話ですね。

 

 

 

★日本は本当に幼児国家なのか

 

 近頃、日本人を未熟な幼児的存在とみなす評論などにおめにかかります。私は過去に海外旅行を三〇数回体験しましたが、日本人は白人に比べて体格が矮小なせいか、ひどく子供っぼく見えますけれども、きわめて平和愛好民族であるという感を深めています。日本人の穏やかさ、恥じらい、友好的態度、これらは天性の良き素質であると言えるでしょう。

 

 それはそうです。アダムスキーが昔ニュージーランドで語ったところによりますと、日本民族は栄光ある土星人の子孫であるということです。したがって、その遺伝的な性質があるのか、私が見る限りでは協調的で従順で穏和な性格を示しています。ですから、海外に出かける日本人の若い人達を見ますと、抵抗的な態度がないものですから子供のように見えるのでしょう。

 

 それならば、なぜあのような大戦争をやらかしたのか。答えは簡単です。つまり日本民族は「宇宙の中心的なもの」を指向する性質を有するので、それがたまたま○○という絶対的な権威者に帰せられたために、それに対して徹底的に集中して一体化したのです。この触媒作用をなしたのは軍部であって、軍部は○○を利用したにすぎません。したがって○○に責任はないと言えます。しかし今は日本人も覚醒して、かつての絶対的権威者が求心力を失ったために、中心を見出せない状態でフワフワと浮遊していると言えるでしょう。

 

 しかし日本民族の心底には宇宙の中心的なものを求めようとする魂がいまだに存在していると私はみています。「日本人は特殊なカルマを有する民族だ」とアダムスキーは言っていますが、これは私の持論を裏書きしています。だからアダムスキーの宇宙的な哲学を研究する日本GAPという世界に例のない団体がいまだに存続しているのです。

 

 したがって日本人は未熟な幼児どころか純粋な民族なのです。国内が世界に類のないほどに平和で安全ですから、日本人は世界のどこへ行っても平和だと錯覚しがちで、そのためにペルーの人質事件が発生したりしますが、根をただせば、ぺルーに平和を持ちこもうとして誤ったと言えるでしょう。以上の理由で私は日本民族を心底から賛美したいですね。再度申しますと、日本人は明らかに宇宙的な民族です。この点でプライドを持ちたいですね。

 

 

 

★憎悪に対して憎悪で報いないということ

 

 第二次大戦が日本軍の降伏で終結したとき、中国の国民党総統、蒋介石氏は、当時中国大陸にいた三〇〇万の日本陸軍部隊の将兵を「暴に対して暴をもって報いるな」と指令を発して、完全に無血送還したことは有名な事実です。今はこの歴史も風化して若い世代はこの知識を持ちませんが、終戦と同時に満洲にいた六〇万の日本軍をシベリヤへ捕虜として連行の上酷使した国際法無視の暴虐なスターリンに比べれば、蒋総統の人格は偉大です。まさに宇宙哲学の実践者そのものですね。

 

 かなり以前、私がある人と地元の料理店で会食していたときに、この蒋総統の話をしていましたら、すぐ近くのテーブルにいた老紳士が私の話に耳を傾けていたらしく、やがて立ち上がって私の席へ接近し、「どのような先生か存じませんが、ただいまは大変素晴らしいお話を有難うございました。今後ともよろしくお願い致します」と言って丁重に挨拶をされた上、出された名刺を見ますと、なんと江戸川区の台湾系組織の指導者でしたので、これには恐縮してしまいました。話というものはどこで誰に聴かれるかわかりませんですね。

 

 さて、私個人に対して憎悪する人達がいることを私は知っています。生来、熱血漢である私は、理不尽な非難攻撃を無視できない性格だったのですが、今は違います。今はいかなる敵に対しても(あちらがこちらを誤解して勝手に敵になっているのですが)私は祝福の想念を送ることにしています。

 

 大体に人間には、自分の精神を向上させるための修練を重ねて自分の能力を開発する意欲と、自分はさておいて他人を助けるための活動を行なう意欲とがあります。仏教的にいえば、前者を小乗的、後者を大乗的と言います。仏教はこのいずれかに分かれるのですが、両方を実践するのが理想的と言えるでしょう。

 

 私が提唱する大宇宙思念法なるものは小乗的ですが、最近は「汝の敵をも愛せよ」というイエスの教えを同時に実践することの重要性をも痛感するようになりましたね。先日も夜間、床の中に横たわっていたときに、私を憎悪する人達に対して「それでも私はあの人達を祝福しなければいけないのだ。その義務があるのだ」という想念が突如、澎湃としてわきおこり、それ以来、小乗だけでは片手落ちになるので、同時に大乗の線をも保つことにしようと決意して、大宇宙思念のときに「万物と万人を祝福します。あの人達が幸せになりますように」という反復思念を常時加えるように習慣づけましたところ、心身ともにスカッとして、実際に自分が大宇宙空間に融合したようなフィーリングが生じるのでした。道を歩行中も私は左足を前方へ出すたびに「有難う」と唱え、右足を前方へ出すたびに「ございます」と心中で交互に繰り返し唱えています。無意識に歩くのはもったいないのです。誰に感謝をするのかといいますと、それは創造主にです。

 

 このような実践を習慣としていれば盤石の防壁が築かれて恐怖すべきものは完全に消滅してしまいます。つまり「大安心」の境地に到るのです。皆様方も試されてはいかがですか。素晴らしい結果が生じると思いますよ。