意識の声 No.51 より

1994年10月号

 

<泥道をも歩こう>

 

 この世界の愚劣、卑俗、無理解等を嫌悪するだけでは、自分自身の道を誤ってしまいます。むしろそのような低次元の実態をしっかりと把握した上で、自分が生きる意義を認識して、少しでも他人を救うような生き方をしてこそ、自己の存在価値があると言えるでしょう。泥道をよけて奇麗な道路だけを歩もうとしていれば目的地に到達できないのと同じです。

 

 高名な画家の須田剋太氏がある人に宛てた手紙の中に「神に対して(人間の)全ての行動が存在する。そのために馬鹿になることに徹することだ」という記事が最近の雑誌『アエラ』に出ていました。この「馬鹿になる」というのは、文字どおり低能になれというのではなく、「人間知恵で考えるな」という意味と思われます。ここにはアダムスキーの宇宙哲学が燦然と輝いています。アダムスキーは「宇宙の創造主の子として徹底的に間抜けになれ。これ以上の名誉ある間抜けはないだろう」という意味のことを述べていますが、これは須田氏の言葉と同じですね。

 

 しかし凡庸な人間はなかなか名誉ある間抜けになれません。とにかくこざかしい人間知恵による批判が顔を出してきます。つまり自分だけの価値観が大将になるわけです。鎌倉時代の道元禅師は高貴な家に生まれながら幼児期に両親を失って苛酷な運命をたどり、一二歳で出家し、中国の宋に留学して辛酸をなめた末、ついに日本曹洞宗の開祖となり、越前に永平寺を建立した偉人です。この方が晩年に開いた悟りは、「人間の目は横に長くついており、鼻は縦についていることがやっと分かった」というのです。なんという物凄い大悟! この場合も、人間知恵を捨てて大宇宙と一体化したときに、やっと人間本当の姿が見えてきたということでしょうね。

 

 

 

<自分を客観視する>

 

 昨年五月に奈良市で開催された大阪支部大会で、私は、自分を客観視することの重要性について話しました。つまり人間はあまりにも自我の固まりになっていますから、たまには一歩離れた位置からもう一人の自分が本当の自分を見つめているようなイメージを描くのです。すると非常に気が楽になってきます。そこでこの頃は、自分自身が背中に大きなバックを斜めに背負って人生街道を堂々と歩いている姿を、もう一人の私が後ろから見ているようなイメージを描くことにしています。背中のバッグに何が入っているかといいますと、私が今生で学んだ宇宙的な生き方に関する知識が一杯詰め込まれています。こうした自分の姿を、なぜか後ろから見るのが好きですね。どこまでも歩き続ける私とは、大宇宙の創造主の子として、創造主の生命エネルギー、叡知、愛の波動が全身に充満している私です。そして、道で出会う見知らぬ人の全てを、やはり創造主の子として、というよりも創造主そのものの現れとして礼拝します。この感覚を極端に高めますと凄い大変化が自分に発生してきますから試してみて下さい。変化が起こらねば、まだ実践が不足しているという意味です。

 

 

 

<日本GAPは宗教ではない>

 

 私が月例セミナーでカルマという言葉をよく使うというので、宗教的だと批判する人があるようですが、これについて一言。カルマという言葉は古代インドのサンスクリットからから来たもので、もとはカルマンといったのですが、これが訛ってカルマになったものです。本来は「業」とか「宿命」という意味がありましたが、現在は「因果応報」や「報い」というようなやさしい意味となって英語化され、たいていの英和辞典に出ています。したがって私は英語として使用しているだけで、宗教とはなんの関係もありません。日本GAPは宗教くさいという声もよく聞きますが、私が宗教的にならないように懸命に努力していることは、月例セミナーの常連の人達がよく知っていることです。

 

 

 

<宇宙の法則は絶対に勝つ>

 

 騒然たる世の中で、本当に真理を悟り、人間や社会の向上を目指す先覚者はごく少数です。巷間には世紀末大変動のくだらぬデマが流れ、低劣な書物雑誌が大量に氾濫し、政治家や大企業は結託して悪事を行い、産業は不景気で低迷し、廃棄物のタレ流しや大気汚染で箱庭の日本は住みにくくなる一方です。しかし日本では難民が全く出現しないどころか、都内の銀座辺の飲み屋は超満員で、海外旅行には年間一千万人以上が飛び立ちます。何がどうなっているのか分からないような世相ですが、これらは一時的な流動現象に過ぎません。どのような事態になろうとも絶対に不変なもの、それは宇宙の法則です。この法則に従って生きる人は必ず勝ちます。外界に目を奪われず、自己の内部の絶対的なるもの、すなわち大宇宙力(宇宙の意識)を自覚しながら、強烈な信念をもって前進しようではありませんか。